自分で選んで来た価値観
生育歴は、その人の人格形成に大きな影響を与える。
これは、間違いなく事実。
ただ、どんな影響を与えるかは、その人によるというのが正しい。
親が離婚したら、離婚するのか?
「離婚」が身近だと、それを解決策のひとつにしがちというのは、ひとつの考え方として正しい。
でも、だからと言って、親が離婚しているから、その子どもも離婚するのかという確定にはならない。
離婚しやすい環境に身を置いていたというだけ。
同じように虐待されていたり、親が過干渉だった場合、同じような過ちを繰り返すかと問うと、
「その、方法で育てられてきたから、その方法を学んでいる。そのため、その解決策をとる可能性はあるし、とりやすいかもしれない。」
でも、その解決策をとるとは限らない。
というのが、正しいと考える。
私は、親が過干渉だったし、離婚してきていたし、父親の悪口を散々聞かされてきていたし、精神的虐待も受けてきた。
だから、同じことをしてしまうのではないかと、同じ思いを自分の子どもにさせるのではないかと、ずっと怖かったし、今でも怖い。
その解決策をとりがち、なのは自覚があった。
他人の出来ていないところを見つけて、イライラしてしまったり、サボっているのを見るとつらくなってしまったり、他者に対して過干渉で、自分の人生を置去りにしがちだった。
でも、自分の人生に焦点を当てて、自分を主役にした時間を過ごし、自分で決めていくようにしたら、何かが変わった。
自分で決めることで、他者からの意見にイライラすることや、他者の行動にイライラすることが、すこーし減った。
自分の責任だから。
人生は孤独だと思う。
結局は、人生は自分のものであり、誰からも決められるものでもなく、誰かの意見に従うことも、自分で決めていること。
誰のせいでもない、自分で決める自分の人生。
価値観も同じ。
子どもの世界は狭くて、そして、他者や親に依存している。経済的にも、精神的にも肉体的にも。
だから、その依存先(主に親)である、人の意見や顔色を伺うことで生き延びる。
それが、その人の価値観になっていく。
親が、学歴絶対主義であれば、学歴こと大切なことであり、勉強に打ち込み、文武両道や、習い事に打ち込むことに意味を見出す価値観を大切にしていくことになる。
そして、ある時気づく。
これは、自分の大切なものなのかどうか。
他人が、やすやすと、それを破って、幸せになっていると、「私はこんなにも頑張ってきたのに…」なんて気持ちになったりもした。
実際かなりした。
父親の学歴を、ディスりまくっていた母親だったから(「頭が悪い学校の人だったから分かり合えなかった」等)、専門学校出身の夫と結婚することを決めた時は、何を言われるのかと吐くほど悩んだ。
私自身も、大学に入るまで、学校に行っているのに勉強していないとか、意味がわからないと思っていた。
でも、それもある時、関係なくない?
って思うようになった。
私は、ただ、「学校の勉強」や「テスト勉強」が好きだっただけ。
それだけ。
親からの呪いのような価値観って、たくさんあって、いまだに苦しむことってあるけど、自分の価値観で生きていきたいと思う。
親戚たちは似たような価値観で生きているから、
「いい大学を出た私」
を評価するけど、それ以外は見えていない。
それに、話が通じない。
別にそれは、悪いことじゃなくて、私の価値観と合わないだけ。
私が苦手な価値観だから、距離をとる。
一緒にいるとつらいから、会わない。
それだけ。
その人たちが受け入れられない価値観を持っていると全力で否定しにかかってくるから、私自身が潰されてしまって、一構成員にされてしまうのね。
だから、私は私の価値観で生きる。
私は私の人生を生きる。
そう決意した。
昼間に寝すぎて、また、朝の4:30になってしまった。
風邪よ、治れ治れよ治れ。
(絶対免疫抑制剤のせいだっ。)
勇気を出して、歩み出す。
「私の言う通りにしないから失敗した」
なんて、言われるような気持ちになっても、「失敗して何が悪い。失敗は成功の元だ。失敗することが悪ではない。」
と、自分に言い聞かせるのだ。
寄り道しても、色んなことに失敗しても、上手くいかなくても、それでも自分で選ぶ。
就職する時も、「人間関係が苦手なのになんで選んだのかと思ってた」なんて、わかったようなことを言われて、その時は反発できなかったけど、なんで、就職先も決まって、頑張ろう、楽しもう、やりたいことだ、と思っている人の足をくじくような事を言うんでしょうね。
ほんとに、私とは、分かり合えない。
そして、支配されたくないから、これからも、逃げて、私は私の足で歩いていくのだ。