レールと草原の走り方と歩き方
走るように生きてきた気がする。
最短距離で、1番効率の良い方法を探して、
それを実行して、また最短距離を探す。
レールを見つけては、レールに乗っかり
猛ダッシュする。
そんな生き方をしてきたのだ。
最短距離で目的地まで行って、
目的地まで行ったら、
また目的地を探す。
周りの景色に目もくれず、
目的地にいかに速く、いかに小さなエネルギーで辿り着くかが大切だった。
そんな生き方を18歳頃まで続けてきて、いきなり目の前からレールが消えた。
その時は気づかなかったが、レールに乗って走ることが目的になっていたのだとあとから気付いた。
レールに乗って走ることも大事だが、それを続けて、そのレールがいつか終わるとき、私は何を思うのだろうか。
速く走ること、エネルギーをなるべく使わずに走ることで何を感じるのだろうか。
私は、レールから外れる私を許せなかったし、最短距離で効率よく目的地にたどりつける自分に酔いしれていたのだと思う。
失敗をよしとせず、失敗する自分を許さず、責めて改善を求める。そんな生き方に、私自身が疲れてしまった。
疲れているのに、「私はまだ出来るはず」「こんなものではなく、まだ成長出来る」「今の私は失敗したけど、まだまだこんなものではない。」といつまでも、【今の自分】に自信を持たせることをしてこなかった。
実に傲慢。
今の自分に自信を持たないことで、失敗する自分から逃げていた。そんな傲慢さに本当の意味で気付いたのは、【 ハ / コ / ヅ / ク /リ / ホ / ウ】という、精神分析の研修会で丸裸にされてからだった。
ペアを組んで実習形式で、方眼紙で検査を実施しレポートを何時間もかけて作り上げるのだが、その結果を、検査方法を研究ている先生がフィードバックするとあっという間に丸裸にされる。
初対面で、「あなたは傲慢よ」と言われたのは、その時は、本当に腹が立ってしまったのだが、1年くらい経つ今になれば、私は本当に傲慢だと思えるものである。
受容にはとてつもなく時間とが必要で、葛藤の過程があった。
そんな傲慢な私には、レールから外れるきっかけが与えられ、走り続けられないという期間も与えられ、ありがたいことに、自由に走り回って安心して帰りたい場所も今はある。
自分より自分を肯定してくれる人も傍にいて、失敗を楽しむ人生を見せてくれる人もいる。
段々と、速く走ることやエネルギーを少なく走ることよりも、まわりの景色をみながら、よそ見をしながら、躓きながら、そんな人生の方が自分に合っていると思うようになった。
長らくレールを走ることを目的としてきた私の生き方の癖を修正することは難しいが、少しだけ立ち止まってみたり、レールから降りる方法を考えてみたり、そんなことをしながら生きてみることにした。
自分で「他人のため」を装ったレールを敷くのではなく、道無き草原を自由に走り回る「サウンド・オブ・ミュージック」の最初のワンシーンのように、思うように自由に感じるままに走り回ってみてみると、なにか見えるものがあるかもしれないと感じている。
人間は、社会的生き物だから、人と人の間で生きるものなのだが、たまには、人と人のあいだで自由に走り回ってみるのも、私の性にあっているのかもしれない。
自由に走り回ったり、立ち止まったりしたら、また安心出来る場所に帰るのである。