人は孤独だから、孤独と言えないの。
孤独だから、誰かと繋がりたいから、人は孤独と言えないの。
悲しいって、堂々と言えないの。悲しい時に、悲しいっていうのって、小さな声でしょ?
「悲しい!」
って大声で、言えないでしょ?
明るく言えないでしょ?
(最近の私はいう事もあるけど)
それは、言葉の持つ力もあるよって、今日教えてもらった。あの、夕方クインテットの有名なおじさんに('ω')
今日は、そのコンサートでの合唱団に参加してきました。
1曲はこれ。
その、練習中に、
「悲しみは 残酷だけど 微笑みは涙をこえる」
の「悲しみ」は、悲しく小さく歌ったらあかんって指導を受けました。
歌をはじめて、14年になるのですが、ずっと悲しいって小さく歌ってきた気がします。
笑って歌う「悲しい」のほうが切ないと思っていたりしたのですが、小さく歌わない方がいいなんて思ったことはなかった。
なんで、小さく歌ったらダメなのかって。
それは、表現者だからこそ、「悲しみ」を大きな声で言えるし、代弁することができるんだって。それぞれの「悲しみ」を重ねていったら、その人に届くような気がするって。
すごくすごく感動したの。
「人間は おろかだけれど 微笑みを忘れなければ」
というところも、同じ。表現者の1人だからこそ、大きく、堂々と代弁者になる。
最後の終わり方も、
「明日は明るくひかる」
という言葉の中には、きらっと、かすかな光が見えるようです。
ほんとうに、ちいさなちいさな光の中に、人は、希望を見出して、今日も眠りにつけたりするのだと思います。
そんな、小さな感情を、音楽から受け取って、日本語を大切にして、わたしも、また、いち表現者になりたい、ステージに戻りたいと、切に思いました。作詞が出来ないのが、残念過ぎるのだけど、本当に、すごいよね。
宮川先生の曲は、とてもとても届くのです。
こころに、ひびくのです。
このコンサートの合唱団に出るのを目標に、今まで生きてきて、また、来年もやるそうなので、それを励みに、生きていきたいなぁと思うのです。
人は、孤独だから、繋がりを求めて、ツイッターを開いたり、ブログを開いたりして、人と繋がりながら生きるのね。それも、また、「おろか」であったり、「悲しい」孤独であったりするのかもしれないけれども、その小さな、「おろか」や「悲しみ」も、みんな持っているものだと、思うのです。
だから、こんなしょうがないことを思ってしまった
こんなことで凹んでしまった
それは「おろか」かもしれない、「悲しい」孤独かもしれない、それでも、それは、人それぞれ形を変えて、なにかみんなが持っているものだと思うから、そう感じるから、こうやって繋がりながら、遠ざかりながら、離れたり、戻ってきたり、そんなことを繰り返しながら、生きていけばいいと思うのです。